蟲師 ギンコ
夢見る森
カサリ。木の葉を踏みしめた音が、暗い森の中で鳴る。軽い音だった。踏みしめた足先にある爪は星屑のように光沢があり、爪先から続く脚は皓々と照る白い月のようだ。『彼女』は裸足だった。靴はない。裸足で歩く。柔らかな肌はしかし、傷ひとつない。森の生き物は彼女を傷つけない――傷つける事などできない。
「ここ、どこ」
ぽつり。桜色の唇からこぼれた声はひそやかに、柔らかく響いた。しっとりと、豊かな樹木の中に響く樹液のように、花の蜜の様に、甘い声だった。
「……声、違う」
彼女は驚いた。否、彼女である『彼』が驚いた。――自分自身で覚えている『彼の声』と『彼女の声』は、性別からして違っていたので。
衝撃と同時に彼女の中に『記憶』が溢れる。日本という国、自身という個、見知った書物や映像が、静かに心に降り積もる。『彼』の記憶は極彩色の宝石だった。鮮やかに郷愁を誘う。
次に水が湧き出る様に『必要な知識』が溢れる。人外というもの、転生というもの、そして世界に満ちている命というものたち。その知識をもたらしたのは光り輝く命の水だった。命の水は、彼女の全てを満たした後に、心の柔らかい場所に留まって小さな泉を作る。
「……末端の末端のようだが、私は、光脈の一部か」
彼女は正しく自分自身を理解した。鮮やかで柔らかな緑の瞳に、苛烈な意志が宿る。
悪くない、と思った。性別が変わってしまった事だけは非常に残念だが、この体には『自由に生きるための力』がある。
「力を持つ以上は責任もあるが……、それもまた良いだろう。何もする事がないというのも、退屈だ」
彼女は笑って、見る者が居れば戦慄するほどの光脈が通っている山奥の森から去って行った。
ギンコが枯れ逝く森に足を踏み入れたのは、偶然だった。彼は蟲師という生業をしているが、その時は急な依頼もない旅の途中だった。ギンコはその森に寄り道した。奇妙な枯れ方をしている森だった。ギンコは蟲師だからと言って何もかもを知っている訳ではない。知らぬ事、足りぬ事はたくさんある。その時も、未知の出来事を見極めたいと思った。――つまり単なる好奇心が発端だった。
「これは……枯れた後の再生が、急激過ぎる」
手に取って詳しく見た枝ぶりから、不自然さを再確認する。森は生き物だ。再生する事もあるが、それにしたってこれはない、とギンコは判断した。
(この森に、何が起こっている? 否、まさか)
「……まさか、ヌシの代替わりか」
「いいや違う。ヌシは替わっていない。そもそもこの辺りにはヌシは居ない。普通の土地だ」
突然聞こえた声に、ギンコは息を飲む。だが彼は声を発した人物を見て、更に息を飲んだ。
漆黒の髪に、白い肌、鮮やかな緑の瞳に、桜色の唇で笑みを浮かべた美女が傍らに立っていた。
「こんにちは。私は――と言う。あんたは?」
「……ギンコ」
とギンコは枯れて倒れた樹に腰掛け、話し合う場を作った。そうしてズバリと口火を切ったのはだった。
「不審を抱かせるような状態にして悪かった」
苦笑を浮かべ、ゆるやかに頭を下げる姿を見て、ギンコは少々慌てた。彼女は大変な美女だったが、その美しさ以上に、何か――ハッキリとは判らないが、しかし何かが決定的に、五感に訴えてくるものを持っていた。それも大層恐ろしいような、愛おしいような、混乱を招く『何か』だ。
だからだろうか、次の問いを口に出す前に、ギンコは随分と勇気が必要だった。
「……何をやったか、聞いて良いかい」
「森を慰めていた。精気を整えて、力強く再生するように。――いささか、やり過ぎてしまったようだけど」
ギンコは一瞬、に何を言われたのか判らなかった。精気を整えるとは何の事だ? たとえばヌシは、光脈筋にある山の精気を抑え、統制している存在だ。まさか彼女はヌシなのかと思うと同時に、ヌシは体に草が生えているのだから草が見当たらない彼女のはずはない、と蟲師としての知識が否を出す。それに彼女は、この辺りにヌシが居ないとも言っていた。
「……整えるっていう事がどういう事なのか、良くわからんのだが。詳しく聞いて良いかい?」
ギンコは潔く尋ねた。彼女はギンコにとって知らない知識を知っている。口調こそいつも通りだったが、未知の領域に踏み込むように真摯な心持ちでいた。
はその言葉を聞いてハッとした。言葉が足りていなかった事に、問われて初めて気付いたのだ。『知識』があまりにも全身に満ちているために、またそれが言葉で覚えた物事ではなかったために、の中には圧倒的に言葉が足りなかった。どう説明すれば良いのだろうと、豊かなまつ毛で美しい影を作りつつ、悩ましげに息を吐く。
「……どうやって説明すれば良いのかわからんから……見て判断してくれないか」
そういう事になった。
枯れ逝く森の一角へ、に誘われてギンコは一緒に歩いて行く。
彼は斜め後ろから彼女を凝視にならぬように盗み見ながら、ギンコは(不思議な女性だ)と思った。一見して飾り気のない着物を着ているように見えるが、よく見れば布の織り目が細やかで光沢がある。あれは相当高い代物じゃないかと邪推して、知人の化野なら正確な価値が判るんだろうな、と思考は空転する。
そもそも裸足で歩いてまったく傷を負わぬ辺りで人外のようだが、ヌシでもなく蟲でもなく、溌剌とした人のように見える。
そう、人に見えるのだ。あれほどに五感に訴えてくるものを持って居ながら、ただの人のように振る舞っている。それがないよりも驚きだった。
「この辺りで良いか」
呟きながらは立ち止まり、振り返って大人しく付いてきたギンコに笑いかける。
「一応、ギンコが不審に思わない範囲になるように気を付けるよ。不審を誘うような事は慎むべきだからな」
ギンコがその言葉に応える前に、はさっさと行動に移した。
(おいおいちょっと待て……!)
ギンコはざわり、と首の後ろが冷える感覚を覚えた。
の瞳からぽろりと涙がこぼれる。その涙は彼女のまろやかな頬をすべり落ちる内に、徐々に光り輝いていく。ギンコは、その光を知っていた。
(光酒……!)
遥かな地の底、真の闇の中を水脈のように流れ移動するもの。
それが、の涙だった。
光り輝く涙はひと粒だけ、彼女の頬からも滑り落ちて、ぽたり、と大地へと吸い込まれる。
ただそれだけだったが、ギンコはそれが意味する事を察して戦慄する。
「……、あんたは光酒を、自分の意志で、自由に与える事ができるのか」
光酒が集まった流れ――光脈は常に移動していて、これが近づいた土地(光脈筋)は緑豊かに栄えるのだ。その光酒を直接与えたらどうなるかなんて、考えるまでもない。
枯れた後の再生が急激になるはずだ。
「ある程度は自由に与える事ができる。けど、大量には無理だ。泣き腫らすほど流した事はないしね。まぁ……今回みたいにひと雫くらいなら余裕だよ。そのひと雫で森に夢をみせて、元気になってもらうだけ。ヌシが居る所ならこんな事しなくても良いのだけど、ヌシが居ない土地だと荒れてしまう所があるし……。ギンコが不審に思った箇所はふた雫以上は落としてたから、これからはひと雫だけにしてみようかな」
「ひと雫だけでもとんでもないと思うぞ」
ギンコはその場に腰を下ろす。先ほど雫を受け取った大地に近付けば、もうほんのりと再生を始めていた。
そんなギンコを見下ろしつつ、予想以上にすんなりと納得された事には驚いていた。本当に見てもらうだけで納得されるとは、流石に思っていなかったのだ。ただ、言葉の足らなさはどうしようもなかったので、とっかかりになれば良いと考えてギンコの目の前で実戦しただけだ。
「……これで納得するギンコは何者だ?」
「俺は蟲師だ。俺からすれば、こそ何者なんだって感じだぞ……」
「私? 私はそうだな……うん、ナニモノなんだろうな……」
そう答えたの声が、眠りから覚めたばかりの夢見るように不確かで、あまりにも途方にくれた迷子のようだったので、ギンコはそれ以上、何も聞けなかった。何がなんだか分からない相手だが、悪いモノではないと思ったので、無理に問いただすべきでもないだろうと心を決める。
彼のその気遣いを、いつまでたってもナニモノなのか尋ねられない事で察したは、静かに笑って受け取った。
それが二人の出会いになった。
言葉を交わし、交流を持つ様になった黒髪で緑の瞳の美女と白髪で緑の瞳の蟲師は、それからも夢見る森で時々出会う。緩やかに会話を交わし、時に森を散策し、楽しいひと時を分かち合う。人外と人外に触れる者の、人らしい付き合いを始めていた。
